“祭り”に立ち戻れ

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2003年5月1日
 
昨年、30年ぶりに「太陽の搭」を訪れた。実は大阪万博以来一度も足を運んでいなかった。大阪に行くたびに気にはなっていたのだが、なぜかいつも素通りしてきた。
 思い返せば、自分のなかに一種の『封印』に近い感覚があったような気がする。あの「輝いていた時間」をそのままそっとしておきたい……。ぼくにとって大阪万博はそれほど強烈な出来事だった。
 小学校6年の夏、万博は突然やってきた。東京に住んでいたぼくは、生まれてはじめて飛行機に乗せてもらい、一週間泊まり込んで朝から晩まで毎日通った。
 会場には、とてもこの世のものとは思えない光景が広がっていた。ちょうどイラストで見た『夢の未来都市』がいきなり地上に舞い降りたような感じだった。金髪のお姉さんに握手をしてもらったり、はじめてみるハンバーガーを頬張ったりしたのだが、とにかく何から何まで現実離れしていた。
 万博には日常にはないワクワクする体験が無限に詰まっていて、起きていることのすべてがキラキラと輝いて見えた。そして、その中心にあって周囲を睥睨していたのが「太陽の搭」だった。
   
 大阪万博は、ぼくにとっての原風景であり原体験だ。ぼくだけでなく、子どもの目で万博を体験した世代はみな同じだと思う。当時大学生だった世代は斜に構えて「反博」などと言っていたらしいし、幼稚園だった子はほとんど覚えていない。ぼくの前後数年の間に生まれた者だけが、何の疑いも抱かず純粋に万博に感激できた世代なのだ。
 ぼくがゼネコンを辞めていまの仕事に転じたのも、自分が受けた感動を次代の子どもたちにも伝えたい、そんな仕事に就きたい、そう思ったからだ。
 しかし、とても悔しく残念だけれど、自分が関わったものを含めて、あれほどのインパクトとエネルギーをもち得たイベントは、結局出現しなかった。「時代が違う」と片づければそれまでなのだが、やはりそれだけではないような気がする。
 いま思えば、大阪万博は間違いなく”祭り”だった。「面白いものをつくりたい」というつくり手の想いに満ちていたし、「新しいことに挑戦しなければ意味がない」との価値観が浸透していた。
 だがもちろん、楽しいだけの遊園地をつくればいいと軽く考えられていたわけではない。文字通り「日本の頭脳」が招集され、文化的にも思想面でも当時の最高レベルの議論をたたかわせていた。熱気と躍動感に満ちたプログラムの数々は、そうしたしっかりとした基盤の上に築かれていた。
 つまり、多くの「面白いもの」や「新しいこと」には思想的なバックグラウンドがあったのだが、現場に楽しさが満ちていたのは、そうした理屈がそのまま未消化で持ち込まれることがなかったからだ。
  
 以前から、博覧会がどんどん説明的になっているような気がしてならない。「論理」で理解させる方向へ進み、直感でつかみ取る構造から離れつつあるように思う。要するに、説教臭いのである。
 環境をテーマとした一昨年のハノーバー万博もそうだった。はっきりいえば、理念も中身もやたらに説教臭かった。もとより国際博の使命は『人類共通の課題を人種や国境を越えて皆で考える』ことだから、その意味では正道を行っていた。環境問題やエネルギー問題をはじめ、人類社会の抱える課題は深刻さを増しているし、以前のようにすべての人に共通の夢や未来を示すことができなくなっていることも確かだ。いま大阪の再現を望むのはナイーブに過ぎるというものだろう。
 しかし、だからといって説明的な博覧会が賛同をもって迎えられるわけではない。来場者は博覧会に”勉強”に来ているのではないし、”反省”するために入場料を払ったわけでもない。観客が博覧会に求めるものは、昔も今も〈ワクワク〉や〈ドキドキ〉だ。
 だが説教にはそれがない。説教とは論理で相手を説き伏せることだが、プレゼンテーションする側は大体において間違ったことは言っていないから、とりあえず納得はする。多くの場合、感心もする。けれど「納得」や「感心」にはワクワクもドキドキもない。だから「感動」しない。
  
 いま博覧会はとても効率よくできている。主催者は、後利用を含めてできるだけ無駄のないよう神経を配る。どんどん”優等生”になっている。
 それに比べると「太陽の搭」はこの上なく乱暴だ。岡本太郎の言う”ベラボーなもの”は、無駄といえばこれほど無駄なものはない。あれだけ巨大でありながら意味もよくわからず、後で使い道があるわけでもない。なにしろ、元はといえば、地上から大屋根に観客を運ぶ垂直移動シャフトに過ぎないのだ。
 だが祭りとは元来「浪費」の場である。そもそも祭り自体が壮大な浪費だ。無駄のない優等生的な祭りが面白いはずがない。
 いまの博覧会にこのバカバカしいまでのエネルギーがあるか? なにものにも媚びない凛とした精神性があるか? もう一度”祭り”の原点に立ち返り、単純で、ストレートで、力強くあるべきではないのか?
 圧倒的な存在感で屹立する「太陽の搭」を前にして、いつしかぼくはそんなことを考えていた。

(月刊「EVENT & CONVENTION」2002.10月号より転載)