シークレット・ギグ

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2003年4月1日
 
ロック・ミュージックの世界に「シークレット・ギグ」という言葉がある。日ごろは球場や巨大ドームでしか演奏しないスーパースターが、突然小さなライブハウスに出演することをいう。
 事前に情報が漏れたらパニックになるから、当然厳しい情報管制が敷かれる。アーティストがステージに上るまで、当の観客にすら知らされないことも少なくない。無名のバンドを冷やかすつもりで来たら、いきなりミック・ジャガーやジミー・ペイジが目の前に現れるのだから、観客はしばし茫然となり、そして狂喜する。
 ではなぜ、アーティストはこんな効率の悪いことをするのか? もちろん、話題づくりやレコーディングのため、という実利目的の場合もあるけれど、いつもそうとは限らない。プロモーションにもレコーディングにも使われず、嬉々として演奏しただけ、というケースも多いからだ。
 容易に想像できるのは、小さな会場で、デビュー当時のように、観客一人ひとりの反応を確かめながらコミュニケートする喜びに浸りたい、というアーティストの願望である。
  
 アーティストと同じで、「なるべく多くの人とコンタクトしたい」と願うのはイベントにとっても”本能”のようなものだ。そうではないイベントも無いわけではないけれど、あくまで例外にすぎない。だから「集客」という概念が用いられるのだし、観客動員数が問題となる。
 動員数はテレビの視聴率のようなもので、良し悪しは別として、どれだけたくさんの人に訴求し得たのかを示す最もわかりやすいバロメーターだ。
 だからぼくたちは入場者数を競う。「数字だけでイベントを判断してはいけない」と知りつつも、盛況であれば誰だって嬉しい。ぼくだって例外ではない。「集客力」は勲章だし、それだけ多くの人とコンタクトできた、という達成感はイベンターの醍醐味でもある。
 だがある日を境に、ぼくは本当に迷うようになった。
 
 93年に韓国の大田(テジョン)で国際博が開かれた。国際ゾーンの入り口に、ちょうどゲートのように日本館とカナダ館が向かい合って配置されていた。
 当時、国際博では日本とカナダは良きライバルだった。両者はいつもトップクラスの人気館となり、評価を競っていたからだ。互いに相手を尊敬していたし、意識もしていた。日本館の仕事が4回目になっていたぼくも、やはりカナダのことが一番気にな?いた。
 両国には最大面積が与えられたが、それでも1,000平米に満たなかった。日本館は事務管理スペースをすべて二階に持ち上げ、収容能力を最大化して出展に臨んだ。
 幸いなことに、日本館は評判となって連日盛況を極め、240万人の来館者を迎えることができた。1日平均25,700人、ピーク日には38,800人が詰めかけた。
 一方のカナダ館は、100人定員のプレショー&メインシアターを1時間に2回転させているだけだ。中身はよく出来ていたが、なにしろキャパシティがあまりに小さい。延々何時間も入場を待たせている。よくこんなプランが通ったものだ、というのが最初の率直な印象だった。
 開幕後しばらくして、ぼくはカナダ館のスタッフにこの疑問をぶつけた。すると予想に反して、彼は誇らしげにこう言ったのだ。『たとえ数は少なくとも、高い密度で訴求する道をあえてカナダは選んだ。いくら多くの来場者を迎えても、確実にメッセージが伝わらなければ意味がない。計画通りだ。』
 カナダ館の収容能力が低いのは、貴重な面積の1/3を管理エリアに割いていることも影響していた。そこにはレセプションルームが設けられ、連日のように関係者のパーティーが開かれていたのだが、これについても『我々の相手は一般来場者だけではない。国際博は民間外交の貴重な機会だ。だから腕のいいコックを本国から連れてきた。』と言い切った。ショックだった。
  
 ぼくは、日本のメッセージをできるだけ多くの人に伝えることが当然の使命だと確信していたし、何を置いても一般来場者とのコンタクトを最優先させるべきだと信じて疑っていなかった。だから、国費でパーティー用のコックを連れていくなど想像さえできなかった。しかしカナダは違っていた。
 「日本館は総入場者数の17%という驚異的な集客力を実現した」「だが確かに、240万人の中にはスタンプ目当てに走り抜ける小学生も含まれていた」「とはいえ、やはりカナダとは比較にならない多くの人々が日本のメッセージに触れたことは確かな事実だ」……。
 堂々めぐりをするばかりで、結局どちらが正しかったのか、ぼく自身のなかでまだ決着はついていない。ただそのとき、演奏の場はドーム球場だけではないことを知った。
 そして、いつかシークレット・ギグをやってみたい、と思った。

(月刊「EVENT & CONVENTION」2002.9月号より転載)