「評価」と向き合う

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2003年1月1日
 
昨年の5月に上野の東博(東京国立博物館)で大規模なグッチのショーが開かれ、話題となった。企画展ではない。プライベートなファッションショーである。一企業が営利目的で行うイベントに、国立博物館が会場を提供したのだ。東博はこれで数百万円の収入を得たらしい。
 欧米では美術館・博物館の館内をパーティーやレセプションに貸し出すことは珍しくないが、日本ではこれまでほとんど例がなかった。まして国立ミュージアムのような”お上”が行うなど、到底考えられなかった。
 この劇的な変化にはもちろん訳がある。昨年4月から国立の博物館、美術館が役所から離れて「独立行政法人」に移行したからだ。「民間の経営手法を採り入れて業務の効率化とサービスの向上を図る」という政策で、東京・京都・奈良の三つが統合されて独立行政法人「国立博物館」に、国立の美術館4館が同じく「国立美術館」になった。
 この措置で、施設や収蔵品が国有から法人に所有権が移ったのだが、それに加えて、国から渡される運営交付金をこれまでのように年度決算や費用科目に縛られずにトップの裁量で自由に使えるようになった。組織編成や事業内容も原則自由だ。一言でいえば、「企業努力」が報われる体制に移行したことになる。
   
 だがもちろん、自由になったと喜んでばかりはいられない。各法人は与えられた目標に応じた中期計画を立案し、数年ごとに識者がつくる「評価委員会」の評価を受けねばならない。業績が上がらなければ廃止や縮小、トップの途中交代もある。
 国立だけではない。経営に自助努力が求められることも、経営状況が客観評価にさらされることも、すでに多くの公立博物館にとって現実のものとなっている。
 東京都が発表した平成12年度の行政評価の結果をみると、都立ミュージアム7館のうち、総合評価の最高がC(規模・内容の見直しが必要)の1館で、4館がD(事業の抜本的見直しが必要)、E(廃止または休止が適当)が2館もあった。
 こうした「評価のあり方」を巡って博物館界はいま大きく揺れている。「観客数や収支など数値だけで評価が決まってしまうのではないか」「経営効率だけが優先され、(収集・研究・保存といった)博物館本来の責務が軽視されるのではないか」「質的な要素をフェアに評価できるのか」……。関係者の不信と不安は高まるばかりだ。
 
 この話、実は他人事ではない。イベントの世界にも、本格的な評価の波が押し寄せようとしているからである。
 大きな声では言えないが、これまでイベントはあまり厳しい評価にさらされずに済んできた。せいぜい動員力と収支が比較される程度だった。客観的・定量的に掴める指標がこの2つしかないからなのだが、結果を簡単に判定できる手軽さも都合がよかった。観客数が目標を上回り、赤字にならなければ「成功」と胸を張れた。
 もちろん、この2つの指標の重要性に疑問の余地はない。動員力も収支も問題にしないのなら、それはもはや「趣味」でしかない。だが問題なのは、この2つだけでは「目的」や「使命」というファクターがほとんど反映されない、ということだ。観客数や採算は大切だが、それ自体は目的ではない。イベントにはそれぞれ固有のミッションがあるはずなのだから、本来はその達成度で評価されてしかるべきだ。
 そしていま、イベントに厳しい眼差しが向けられつつあるのも、まさにこの点が問題とされているからである。情報環境が激変するなかで、コミュニケーションメディアとしてのイベントの効用や費用対効果をもう一度冷静に見定めよう、との気分がジワジワと広がりつつある。目指すものが曖昧で〝なんとなく〟行われているイベントには厳しい時代になった。
 
 はっきりと言えることは、博物館もイベントも、「評価のあり方」を自ら社会に提案して認知を得る努力が避けられない、ということだ。”イベントの意義は安易な評価には馴染まない”などの言い訳はもはや通用しないし、これまでのやり方を続けるだけでは存在意義そのものが疑われかねない。
 評価の土俵に上がるために必要なことは、自らのアイデンティティとミッションの宣言である。逆にいえば、評価にさらされることが、イベント自身が「自らは何者なのか、そして何を目指すのか」を見つめ直す契機になる、ということだ。
 今後、イベントに注がれる視線が一層厳しくなることは間違いない。だがそれは、見方を換えれば大きなチャンスでもある。イベントだけがもつ性能や他のメディアにはない優位性を社会に納得させる絶好の機会となり得るからだ。
 すべては、『イベントだけは特別だ』という思い込みと決別することからはじまるのだと思う。

(月刊「EVENT & CONVENTION」2002.5月号より転載)