ステーキを売るな

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2002年11月1日
 
たまたま見ていたテレビ番組で、人間の脳の話をしていた。右脳と左脳の働きの違 いをわかりやすく解説していたのだが、これが面白かった。
 よく知られているように、人間は右脳と左脳という「2つの脳」を状況に応じて自動的にスイッチしている。両者はいわば補完関係にあり、使い分けるのは脳を交互に休息させるためのメカニズムらしい。
 両者の性格はまったく対照的だ。右脳は主にイメージ的な情報を取扱い、左脳は主として言語や論理的な情報処理を受け持っている。頭で考え理屈で行動するときには左脳が、無意識の行動や趣味などの楽しい行為では右脳が優位に働く。だから、絵画や音楽の観賞は右脳、教科書を勉強するときは左脳が使われる。面白いことに、同じゴルフでも、仲間とのプライベートゴルフでは右脳が働くが、接待ゴルフでは左脳が優位となるそうだ。
 当然だが、どちらが働いているかによって気分も変わる。左脳を酷使すると脳内に疲労が溜まってストレスを感じるのに対して、右脳が活発に働くと快楽物質が分泌されてリラックスする。仕事に疲れたとき目を閉じて音楽を聴くと回復するのは、左脳が休み右脳が活性化するからだ、と言っていた。
 
 だとすれば、イベントとはまさしく右脳のためのものだ。昔からそうだった。僕たちの先祖は、祭りの日には日常の枠組みとヒエラルキーをいったんチャラにして、そのときにだけ許される非日常の価値観に乗り換えた。「無礼講」である。
 辛く貧しい日常から逃れることができないからこそ、年に一度だけの贅沢な時間を自らに許した。ハレの日には、男も女も、老いも若きも、きっと脳内に快楽物質をドバドバ出していたに違いない。
 もちろん今だって、イベントは日常のフォーマットから離れた「特別な出来事」だ。ルーティンの営みを誰もイベントとは呼ばないし、日常性から離れれば離れるほど、イベントのパワーは強くなる。
 イベントは暮らしのなかにリズムをつくり、体のなかに活力を満たす。「仕事に疲 れたとき目を閉じて音楽を聴く」のとまったく同じだ。
 イベントは、五感のすべてを動員して、そのときその場に居合わせた者だけに強いインパクトでイメージを残す。イベントの本質は、『輸送も再現もできない』ことなのだ。
 だからイベントは、間違いなく頭での論理的な「理解」よりも皮膚感覚での「体感」 に適したメディアであり、言葉よりも空間が、論理よりも体験が力をもつ情報環境だ。 文字通り「右脳型」メディアの筆頭だといっていい。
  
 イベントの世界では、昔から『ステーキを売るな、シズルを売れ』といわれてきた。シズルとは肉の焼ける音のことだ。ステーキを売りたいと思うなら、どんな能書きを並べるよりも、肉の焼けるあの“ジューッ”という音と匂いに勝るものはない、という意味である。イベントの神髄を言い当てた言葉だ。
 ところが、最近のイベント、ことに博展イベントを観ていると、この特性があまりうまく活かされていないのではないか、と感じることがよくある。情報やメッセージ を「体験を通して皮膚感覚に訴える」ことを諦め、はじめから「頭で理解させる」ことを前提としたものが少なからず目につく。
 商品カタログを拡大コピーしたようなパネルが並ぶ見本市ブースなどは論外としても、博覧会の映像展示でさえ、学習教材ビデオのようなものが少なくない。「これなら後でパンフレットを読んでも同じ」「家のビデオで見るのと変わらない」のであれ ば、パンフやビデオを配った方が合理的なのだ。
 そういった“教材型”展示は、空間性・体感性・双方向性というイベント本来の武器を活かしていないだけでなく、実はある共通した訴求構造を下敷きとしている。それは『順を追って提示される情報を着実に消化していくと、最後に体系的な理解に到達する』というものだ。
 この構造の典型は、いうまでもなく教科書である。

 はっきり言ってしまえば、イベントは「論理的・体系的な知識の伝達」は得意ではない。学会や国際会議もイベントの一種だからあまり乱暴なことは言えないが、基本的にはそう考えておいた方がいい。体系的な知識や情報の伝達という点では、はじめからプリントメディアにはかなわない。これを間違うとはじめから土俵には上がれな いのである。
 イベントのターゲットはあくまでも右脳であって、左脳ではない。この当たり前の事実を忘れてはダメだ。脳内に疲労を溜めるようなイベントには誰だって行きたくな い。
 来場者にどれだけ快楽物質を分泌させることができるかが問題だ。右脳を刺激するシズル感が勝敗を決める。

(月刊「EVENT & CONVENTION」2002.3月号より転載)