『“芸”では勝てない』

■執筆者 平野 暁臣
■執筆日時 2005年11月1日
 

『“芸”では勝てない』

 休日にぼんやりテレビを見ていたら、ゲストの半生をドラマ仕立てで振り返るという趣向のバラエティ番組がはじまった。その日のゲストは“超魔術師”Mr. マリックだった。
 内気で目立たない田舎の少年がやがて手品の魅力にとりつかれ、さまざまな浮き沈みを経験しながら成功を収めるまでのドラマをわかりやすく描いていて、なかなか面白かった。
 一番の山場は、いうまでもなく彼が“超魔術師”と称してテレビのスペシャル番組で鮮烈なデビューを飾ったあたりだ。「手品」ではなく「超魔術」。“ハンドパワー”は流行語になった。
 成功の決め手は、あえて「トリック」とも「超能力」ともいわずに観る者を煙に巻く独特な語り口だろう。彼は「マジック」と「トリック」を掛け合わせた“マリック”という名前をシンボルに、自らの演目を『既成の概念からはみ出した新しい領域の出来事』として演出した。そして、それはみごとにハマった。彼の描いた戦略は完ぺきに機能した。

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 すでにトップクラスの技量を備えていたとはいえ、一介のマジシャンに過ぎなかった彼が一躍時代の寵児へと駆け登ったのは、むろん偶然ではない。そこには転機となる事件があり、それを契機に編み出した彼独自の戦略があった。“超魔術”も彼一流のイメージも、すべてはそこからはじまったのである。
 その事件とは、なんとあのユリ・ゲラーの出現だった。
 スプーン曲げの『超能力者』ユリ・ゲラーが彗星のごとく現れ一世を風靡したことで、「手品業界」は壊滅的な打撃を受けたらしい。どんなに高度な手品を見せても、世間からは「どうせタネがあるんだろ?」「所詮インチキじゃないか」という冷めた目で見られ、それまで手品用品売場の常連だったファンたちもソッポを向いた。ハトを出そうが人間を消そうが、「スプーンを曲げるだけ」の前ではまったく無力だった。
 一見理不尽なようだが、考えてみれば当然だ。「手品」と「超能力」では、大袈裟にいえば、魂への響き方が天と地ほども違う。明らかに手品は「技術」の範疇だが、超能力は「精神」の領域にある。
 つまり、いくら高度な技術を身につけたとしても手品は『芸』に過ぎないが、スプーンを曲げることしかできなくとも超能力は『存在』そのものだ。ユリ・ゲラーが本物の超能力者かどうかは知らないが、少なくとも当時の彼にはそう信じるだけの存在感があった。

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 結局、「芸」は「存在」には勝てない。要するにそういうことだ。
 もちろん「存在そのもの」で勝負するのは並大抵のことではない。技術を磨いたからといって、必ずしも「存在そのもの」になれるわけではない。テクニックを上達させるのは「努力」で何とかなるが、「存在」は努力だけでは獲得できないからだ。
 超能力者の話は別としても、世の中には他で替えがたい存在感を放っている人が確かにいる。たとえば優れたアーティストたち。もとより技術も一流なのだが、彼らには“そんなことは二の次だ”と思わせる圧倒的な存在感がある。アーティスト自身はもちろん、彼のつくる作品や空間もまたそう映る。
 考えてみると、ぼくたちは彼らのテクニックそのものに感動しているわけではない。もしそうなら、技術水準に比例して感動の度合いも上下することになるが、そうではない。
 ぼく自身の経験で言っても、優れた技術に接して驚嘆したことは何度もあるけれど、ただテクニックが巧いというだけで感動に立ち尽くしたことはない。乱暴に言い切ってしまえば、技術に出来ることは、おそらく感心させることだけなのだ。
 技術は論理だから、水準の高さを理詰めで納得して“感心”する。それに対して「存在」は、論理を超えて心に働きかけるから“感動”を呼び起こす。きっとそういうことだ。

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 イベントの使命は感動を生み出すことだ、とよくいわれる。
 確かに感動を呼ぶイベントは少なくない。たとえばオリンピックがそうだ。だがその感動は、必ずしも選手の技術水準の高さや大記録の数字自体がつくり出すわけではない。ましてやオリンピックというイベントの「形式」そのものには関係がない。
 ぼくたちが感動するのは、自らの肉体と精神を極限まで追いつめたアスリートたちの「存在」だ。彼らには優れたアーティストと同質の存在感がある。
 だがここで忘れてならないことは、オリンピックの感動はイベントクリエイターがつくったものではないし、またつくれるものでもない、という事実だ。
 ぼくたちは気軽に「感動」を口にする。「感動を与えるのが仕事です」「この演出が多くの人を感動させます」「大きな感動を生むことは間違いありません」………。
 だが果たして本当にそうか? ただ「感心」させているだけではないのか? 
 マリックの話を聞きながら、いつの間にか自問していた。

(月刊『Event & Convention』 2005.5月号より転載)