時が流れる美術館(2)

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2004年10月1日
 
 先月、美術館には時が流れていない、という話を書いた。「演出」がないから「時間の感覚」が生まれない。常に「一時停止」の状態だから見方が固定されている。
 美術館は時間の感覚をもたないことで多くの可能性を失っているのではないか、というのがぼくの仮説だった。そしてそのアンチテーゼを込めて、ぼくは美術館を設計した。
 今月はその続きを書こうと思う。実は、美術館にはもう一つ無いものがある、と考えているからだ。それは『空間』という概念である。正確にいえば「空間メディアとしての自覚」とでもいうべきものだ。美術館は紛れもなく空間で情報を伝えるメディアであるにもかかわらず、その特性と役割を本当に自覚しているのか? と疑わずにはいられないのである。
 そう感じるのは、ぼくがイベンターだからかもしれない。いうまでもないが、イベンターの仕事は「空間をつくること」である。もちろん空間とは床・壁・天井で構成される物理的なスペースだけを意味しない。その中で、その時その場に居合わせた人、モノ、情報が絡み合って生み出される“空気”としかいいようのないもの、それをぼくたちは「空間」と認識する。
 だから空間は、「観る」ものではなく「体験する」ものだ。この点においてはイベントも美術館も変わりがない。だが、少なくともいまのところ、美術館は「観に行く」場所であって、「体験する場」とは考えられていない。

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 どうやら美術館には「観客と作品は1対1で対峙すべきもの」という不文律があるらしい。だから作品をひとつずつ個別に鑑賞することだけが是とされてきた。
 ゆえに、どの美術館でも四角い部屋を白い壁で仕切り、機械的に作品を並べることになる。美術館関係者が「展示」というとき、その意味するところはおおむね「作品をどの順に並べるか」であって、「どのような空間を構築するか」ではない。要するに、美術館ははじめから空間には関心がないのだ。
 だから美術館の展示は「図録」と同じになる。事前に設定したコンテクストに沿って作品を順番に並べるだけだ。乱暴にいえば、写真か実物かの違いを除いて展示と図録の間に構造的な差異はない。
 しかし本来、空間メディアは印刷媒体や電波媒体とは違って、頭での「理解」だけでなく肌で「感じる」ことができるという性能を備えている。これを活かさなければ損ではないか。

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 ぼくたちは、人の気配や表情、風や光のわずかな変化、音や匂い、次々と目に入る光景、手触り、そのとき頭に浮かんだことなど、時間の流れの中で起こる小さな出来事の積み重ねを通して空間を感じる。その場の「空気」とは、それら無数の情報が合成されてつくり出されるイメージのことだ。
 設計をはじめたとき、そうしたいわば「空間の記憶」を持ち帰れるような美術館をつくりたい、と思った。これまでのような「図録のような美術館」ではなく、「空間体験の場としての美術館」ができないか、と考えた。
 出来上がった展示室の内部は、固有の性格を与えられたいくつもの空間に分節されている。円形劇場のようなスペースもあれば、2~3人がやっと入れる穴ぐらもある。路地のような通りもあれば店先のショーウインドウもある、といった具合だ。「井戸」「洞窟」「骨董通り」………、各ゾーンにはいつしか愛称がついていた。それらを巡り歩くうちに様々な情景が来館者の頭のなかにインプットされていく。
 ただし、それぞれの空間は独立しているが孤立してはいない。空間上も視覚上もゆるやかにオーバーラップしている。隣の空間や他の来館者の気配が絶えず進入する。不意に観客同士の視線が交錯することもある。目の前の作品以外の情報をできるだけ遮断しようとするこれまでの設計思想とはあえて逆の道を選んだ。
 作品、環境、人が組み合わさって1回限りの空気をつくり、そのイメージが強烈な記憶となって残る。旅先で歩いた広場や路地の情景が記憶に残るのと一緒で、空間体験として肌で感じ取ったものは忘れない。イベントと同じだ。

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 多くの人にとって、美術館を訪れるにはある種の決意が必要だ。コンビニに行くような気楽な気分では敷居が高い。なぜなら、図録のようにつくられた展示と向き合うには「学習」するしかないからだ。全身で、感覚で、体感する回路がはじめから閉ざされている。だから美術館は疲れる。
 設計しているとき、ぼくはいつも来館者のことばかり考えていた。どうしたらワクワクしてもらえるだろう?、どうすれば一瞬でイメージが伝わるだろう?、どんな空間なら楽しんでもらえるだろう?………。
 当然である。イベンターは「人」のことを考えるのが仕事なのだ。イベントは「コトづくり」だから、当たり前のことだ。
 美術館はいままで、「モノづくり」の発想でつくられてきた。いや、美術館だけではない。多くの空間メディアがそうだった。それらを「コトづくり」の視線で見直してみたら、きっと新しい可能性が見つかるはずだ。
 子どもたちが歓声をあげて走り回る館内を眺めながら、ぼくはそう確信した。

(月刊 『Event & Convention』 2004.4月号より転載)