なにも足さない

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2002年10月1日
 
美しいものを見て涙がこみあげる、という経験は滅多にできるものではない。「映画やドキュメンタリーに感動して目頭が熱くなる」ことはあっても、ストーリーとは関係なくただ”美しいというだけで涙がこみあげてきた経験がある者はそう多くないだろう。正直に言うと、ぼくはいままで一度も経験がなかった。
 もちろん美しいものはたくさん見てきた。仕事柄、世界の名だたる美術館をかなり観ているし、個人的にもアートが好きだ。だがぼくのアートライフは、これまで涙とは無縁だった。
 しかし半年ほど前に、はじめて涙が出そうになる、という体験をした。日本を代表する舞踏集団「山海塾」の舞台を観たときだった。そのときの感覚を正確に言い表すことはできないけれど、大袈裟にいえば”極楽浄土をみたような幸福感に包まれた”というのがもっとも近いような気がする。感極まって涙するのとは正反対で、精神的に極めて安定した状態で静かに感動が押し寄せる、という不思議な感覚だった。
 とにかく美しかった。しかもそれは、絵画や彫刻のようにモノに定着した美しさを「観る」のではなく、空間そのものが美しく張りつめるのを「感じる」というはじめての実感だった。そのときぼくは、生身の肉体がこれほど美しく、身体にここまで豊かな表現力が備わっていたのか、と子どものようにただ驚くしかなかった。
 
 山海塾はパリを本拠に国際的な活動を続ける舞踏集団である。舞踏とは数少ないジャパンオリジナルの芸術で、いまや「BUTOH」で世界どこでも通用する。
 剃髪に全身白塗りの舞踏手たちが、重心を落として引きずるようにゆっくりと身体をうねらせる。体はゆがみ、動きはスローモーションのように遅い。
 彼らは何かを演じているわけではないから、芝居ではない。端正な美の造形を型で表現するバレエやダンスとも違う。他のいずれの芸術表現にも似ておらず、独自の様式を築いている。
 驚いたのは息をのむ美しさだけでなく、明快なストーリーすらないのに、観客の集中力を1時間半ものあいだ高い水準に維持していたことだ。客席の緊張感は最後まで緩むことがなかった。
 身体とほんのわずかなしつらえさえあれば、観客をわしづかみにして没入させることも陶酔させることもできる、という単純な事実は、ぼくにとって大きな発見だった。
  
 なにより新鮮だったのは、彼らが何も「組み合わせ」ていないことだ。彼らは最初から最後まで自らの身体だけで勝負する。映像のギミックに頼ることも、仕掛けや装置に依存することもしない。
 舞台にあるのは、光、音、最小限の造形のほかには、文字通り身体だけだ。台詞もなければセットの転換もない。肉体もステージも極限まで無駄を殺ぎ落とし、わずか数人で独自の宇宙を構築してみせる。わかりやすくいえば、我々イベンターが日常的に使う意味での「演出要素」がほとんどないのである。
 おそらく思考方法がイベンターとは逆なのだ。ぼくたちはイベントを考えるとき、さまざまな材料を組み合わせ、たくさんのスパイスやかくし味を使って複雑な味を出そうと四苦八苦する。使う素材が多いほど味は豊かになり、高級な料理になる、という「常識」を無意識のうちに信じている。
 だからぼくたちは、いつも「足し算」のことばかり考えている。「魅力をつくる」のも「新しさを生み出す」のも、何かを”加える”ことで実現しようとする。セレモニーにアトラクションを加える、海外アーティストに国内アーティストを加える、伝統芸能に現代作家を加える、映像シナリオにレーザーを加える……。
 イベンターはみな、予算が増えれば「足すもの」が増え、それに比例して面白さもインパクトも向上する、と考えている。逆にいえば、「足すもの」がなければ単調で変化に乏しい内容を甘受するしかない、と諦める。
 だが明らかに、山海塾は違っていた。

 国産ウイスキーのキャッチコピーに『何も足さない。何も引かない。』というのがある。本物とはなにか、の本質を一言で言い当てた名文句だと思う。
 山海塾の舞台はまさしくこれだ。あるのは生身の肉体だけで、これ以上なにひとつ足すものも引くものもない、というギリギリの状況が高いテンションをもたらしていた。観ている側も全身の感覚が研ぎ澄まされていく。
 なにより彼らの舞台には、「リアルな出来事に立ち会った」という確かな手ごたえがあった。「バーチャルな世界から最も遠くにいる実感」といってもいい。
 これこそまさに、イベントが体現すべき最も大切な要件ではないか。彼らはそれを、何も足さずに完ぺきに実践してみせていた。
 足し算ではない方法論を探そう、ぼくはいま本気でそう考えている。

(月刊「EVENT & CONVENTION」2002.2月号より転載)