【震災コラム】 震災のこと

執筆者 IN THE WIND菊地美一

20110930

 2011年3月11日は、私の人生を変えたターニングポイントになりました。

 その日は、午後1時から我が妻である陽子と市内の朝日新聞郡山支局で、取材を受けていました。夫婦で歌を歌って生きていこうと、昨年10月会社を辞め、県内のメディアには、数多く取り上げられていましたが、全国紙は、初めてのことです。

 取材も細かくしていただき,2時半を過ぎ、ティブレイクということで雑談をしていた時でした。

 2時46分、後には何度も聞くことになる、あのいやな音、携帯電話の地震情報の警戒音が鳴り響いたのです。

 え、と思う間もなくいきなり激しい揺れが襲ってきました。目の前の湯飲みからあっという間にお茶がこぼれだし、一度おさまりかけたかと思ったのもつかの間、第2波のさらに強い揺れが襲ってきました。その時間の長かったこと、5分以上に及ぶ長い揺れでした。

 発表では震度6弱と聞きましたが、それ以上の感じでした。

 緊急事態に、インタビューはそのまま中断、わたしたちも大急ぎで家に戻ることにしました。外に出たとたん目を疑いました。あちこちで倒れている塀、外壁が崩落した家々、信号は止まり、吹雪が吹きつけてきました。

 自宅マンションのエントランスホールには、上から階段で避難してきた人たちが青ざめた顔で集まり、中には泣いている女性もいました。ぐるぐると非常階段をのぼり、10階につくと、まず隣の東塔との間をつないだエクスパンションの天井部分が崩落して垂れ下がり、上の空がのぞけるのに驚くばかり。

 玄関を開けると、目の前には180センチの靴箱が倒れ、それを持ちあげなければ家にも入れません。あたりは足の踏み場もないというよりも、床が見えるところがほとんどないような状態で、家の中は何もかもが倒壊して、めちゃくちゃになっていました。

 倒れた家具を乗り越えて、中に入ると、照明はこわれて垂れ下がり、その照明が、がんがん揺れたために、天井にも小穴が開き、壁にも箪笥が転倒防止のL字金具を振り切って倒れた穴が開いていました。

 なんとピアノも15センチ以上移動していました。

 ふすまや障子はすべて外れ、ドアが開かない部屋が2部屋、坐る場所はおろか、ちゃんと立っていられる場所もなく、5分と間をおかずにやってくる大きすぎる余震。あまりのことに茫然としていると、天井から水が降ってきました。上のお宅の全自動洗濯機のホースが外れ、上のお宅の帰宅が地震後3時間近くたっていたため、その間水が漏れっぱなしになっていたのです。

水は、漏れ出したと思うと、いたるところでばたばたと落ちてきて、天井のクロスが円形にたっぷりと膨らみだしました。倒れた家具や物の上に、ビニール袋を敷き詰めたり、タオルをかけたり、ものが壊滅してる中、あるだけのなべやふろおけを並べても、落ちてくる水に追いつきません。

もう夕方になり、照明はつかず、住めない我が家を後に、ともかくも友人宅に避難しました。

 そして翌12日、まだ水が垂れてくる我が家のなかで見た、何とか助かったテレビに映し出された、福島原発1号機の爆発の映像。続く14日のさらに大きな3号機の爆発。目を疑う爆発の光景。避難が遅れ、避難中に被爆した原発近隣の人々のニュース。それは福島県の前代未聞の被災の始まりでした。

 当時私たちは、4号機には、ウランより危険なプルサーマルがあることは友人に聞いて知っていましたが、本当は全機にあったのです。もちろん、今になってあきれる実態が次々に明らかになっていますが、当時は何の情報も無く、テレビ、ラジオで危なそうな情報になると、いきなり福島県内の情報に替わって、断水情報などになってしまいます、またプルサーマルのプの字も言われないのが、不思議なほどに不気味でした。

 断水。壊れたトイレ。結局我が家に住めず、愛猫を連れ、菊地家も1週間以上も避難民となり、友人宅を転々、本当にお世話になりました。

地震に先立つ、認知症の母の死。ようやく母をみとったと思ったら、やってきた地震。

よその家で寝られないわたしは、すっかり避難ストレスで痩せてしまった愛猫同様、血圧が200近くまで上がり、友人宅で寝込んでしまいました。我が家に戻り、私も猫もすかっり元に戻ったのですが。

 戻っても、あまりの倒壊ぶりに、一向に進まない片づけでしたが、次々と避難、2時避難、3時避難を余儀なくされる浜通りの人たちに、「何かしなければ!!避難所に行く!!」と菊地陽子が言うのです。とにもかくにも寝る場所と台所だけは確保されたので、その彼女の情熱に押され、3月24日から避難所ライブをスタートさせました。

私はといえば、その情熱に引きずられるれるようにしての避難所巡り。目の当たりにした避難所には、悲しみと怒りと絶望がいっぱいでした。

 2500人もの人々が、昨日まで通路だった、土足で歩くところに、毛布だけで寝ているのです。背の低い段ボールの仕切り、あまりにも狭い一家分のスペース、足を伸ばして寝ることもできません。津波で家を流され、あるいは原発の爆発で、着の身着のまま、追われるように出てこざるを得なかった人々のマイナスのオーラが満ち満ちていて、私は帰ってくると、げっそりとし、食欲もなくなってしまうのでした。

しかし、連日のように慰問ライブを続けるうちに、避難されている人たちも表情が落ち着き、歌を聞いてくださる表情にも変化がでてききました。4月の初め、ビッグパレットでの演奏の後でした、演奏を聴いたあるご婦人が、涙を流しながら、話しかけてくれたのです。

 「今まで、地震や、原発でひどい目にあって、泣くこともできなかったんだ。今日あんたらの歌を聞いて、初めて泣けた。よかったよ。」と。

わたしも思わずもらい泣きしました。

また別の日には、演奏前に年配の男性と話をする機会があり、津波で、家を流され、弟さんも亡くしたと聞いていました。

「大変だったね」としか言えません。演奏が始まり、一番前で熱心に聞いてくれていたその男性が、最後の曲「ふるさと」を、一緒に歌いながら、泣いているのです。

わたしは今まで人前で歌っている時に泣いたことなどありません。けれども、その時、その男性の涙を見たとき、わたしも涙があふれて、歌えなくなりました。

演奏後、温かな大きな拍手を頂き、さらに胸が熱くなりました。

「次は泣かねで歌えよ~~~」と、他の方に逆に励まされ、また涙でした。

 4月11日の最大余震の中、がらがらと揺れるビッグパレット2階の会場内で、最後まで歌ったときにも絆を感じるおおきな、おおきな拍手を頂きました。一家で避難中の高校生が私たちのイラストをさらさらと書いてくれたこともありました。

 絶望と悲しみに打ちひしがれる避難中の方たちから、はげまされ元気づけられ、歌の力に気付いたのです。

 極めつけは、91歳のおばあさんの言葉でした。

 農業センターでの慰問ライブの後、泣きながら聞いてくれていた、南相馬から避難してきたおばあさんがこう言ったのです。

 「オレ(田舎じゃ、女の方もこういいます)は、もう済んだことは、振り返らね。これからのこどさ、考えんだ。100歳までの10年間を計画すんだ。前向いて生きんだ。」

 これには脱帽でした。

 何一つ持つこともできず避難してきた、91のおばあさん。

 わたしたちのイベントは震災でみんなキャンセルになり、これから歌で!と思っていた矢先の地震、原発。

 今も避難中の友人、廃業に追い込まれた友達の旅館。子供たちがいなくなってしまった中通り。放射能におびえたり、次々明らかになる嘘にがっかりしたり、いろいろな物が壊れ出費ばかりの日々だったり。

 でも人生は捨てたもんじゃない。

 今自分ができることをしよう!今自分が生きていることを大切にして、毎日を精いっぱい、なんとか生きていこう!

 そう決めたのです。

「続く」