「文化芸術のイベント」

■執筆者 JEDIS中部 平山佳寿

■執筆日時 令和元9月14日

 『残心(ざんしん)』とは日本の武道および芸道において用いられる言葉。文字通り解釈すると、心が途切れないという意味。意識すること、とくに技を終えた後、力を緩めたり、くつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念でもある。
 どんな相手でも相手があって初めて技術の向上ができることや相手から自身が学べたり初心にかえることなど、相互扶助であるという認識を常に忘れない心の緊張でもあり、相手を尊重したり思いやることでもある。
(Wikipediaより本文抜粋)

 皆さま、初めまして昨年JEDISのお仲間に入れていただきました中部の平山佳寿と申します。
 上記の「残心」と言う言葉はイベントの仕事で出会った私にとって大切な意味を持つ言葉です。
 それでは、簡単ですが私のイベント業務に関わったキッカケからお話しさせていただきます。

◆イベントと私

 私の故郷、岡崎市は徳川家康の生誕の地として観光が栄えております。春は桜まつり・家康行列 夏は花火大会。この城下町の花街で私は産まれ子供の頃、家の稼業が銭湯を営んでおり小学生の頃は夕方になると学校からの帰宅道、お座敷へ行く前の芸者さんたちによる三味線や小唄の音色が町に流れていた思い出があります。

 昭和58年、高校を卒業した私は市の文化会館の管理協会(当時指定管理制度はなく市の外郭団体)の事務員として就職をしました。1,000名程度の多目的ホール・会議室・和室を備えた会館でレストラン経営も管理協会が運営しており新人の私は貸館事務の間に宴会場の設営やビヤガーデンの接客に毎日追われていました。

 この職場でイベント業務に初めて関わることになり「市長杯争奪カラオケ大会」など当時、市直営では行えなかったイベントを外郭団体が多く受け持つようになりました。

 その後、昭和63年に市役所へ入庁した私は、環境調査や戸籍届・住民異動届などの職場を経て平成13年9月末、上司に呼ばれ「君、明後日からクラシック専用ホールの開設準備事務局に行ってもらうよ」と言われ「寝耳に水」のことわざの意味が身に沁みました。ここから、本格的にイベント業務へ関わっていくことになります。

 翌年4月にオープニングコンサートを皮切りに年間13~14本程度の自主事業クラシックコンサートの企画・運営業務がスタートしました。パック物(音楽企画会社の売り込みコンサート)・地元音楽家や小中学校などの協力による手作りの企画などを開催しました。素人の私たち職員はチケット販売促進の方法を模索し、ホール近隣住宅へのチラシの投げ込みやポスター掲示場所依頼・市の広報紙掲載はもちろんのこと、地元百貨店のチラシにコンサート情報の一部を提供してもらい百貨店に来場していただいたお客様へ抽選でチケットプレゼントなども試みました。

 地道な活動ではありましたが少しずつコンサートホールの知名度向上と利用稼働率向上効果につながったのではと感じています。この職場で5年間勤務し、その後「小・中学校の施設管理業務」「農業者支援・就農者拡大を目指したイベント業務」を経て、平成24年度に文化団体の事務局へ異動となりました。

◆文化協会と私

 私の町の文化協会は昭和50年に設立し地元で活躍されている文化団体の集まりで「美術・文化・芸能」の3つの部会で組織されております。
美術部会(絵画・書道・写真・工芸など)文化部会(茶道・華道・文芸・表装など)芸能部会(日舞・箏曲・詩吟・クラシックバレエ・大正琴・演劇・民謡・など)
さらに愛知県内の文化協会が集まり県教育委員会に事務局がある愛知県文化協会連合会という組織があります。

 この芸能部会の催事の一つに「愛知県文化協会連合会・芸能大会」があり毎年各市町村が持ち回りで主催市となり愛知県文化協会連合会と合同主催で各市町村から出演団体を招待して開催しております。

 岡崎市が主催の年にどのような演目とイベント内容にするか様々な案が出た中で10数年前、市内の中学生がホームレスを襲撃する事件が起き市教育委員会は子供たちへ命の大切さと故郷を愛する心を育成するため「夢踊る」という歌を作り全市の小中学校へ愛唱歌として普及をさせました。この曲をオープニングとエンディングに使用したいという声が芸能大会運営会議であがり演目に組み込むことになりました。

 まず、オープニングは和楽器・洋楽器とコーラスによる「夢踊る」の合同演奏、中盤は各市町村からご出演いただく団体演目、エンディングは「夢踊る」の曲で日舞とクラシックバレエの踊りというプログラムで、会員の中には奇を衒った内容で困惑を隠せなかった方々も見えましたが、仕事後各団体の会員が夜ホールへ集まり試行錯誤の中、ジャンルの違うそれぞれの団体が目標に向かい努力し一枚岩となる効果が少しずつ見えてきました。

 本番当日、最終演目の日舞とクラシックバレエが舞台上で「夢踊る」の曲に合わせ踊る姿に観客は、もちろんのこと舞台袖の私も胸の高まりを感じました。曲が終盤になり、「・・・ズッチャン!」と〆のリズムが終わると、ブラボー!の歓声と割れんばかりの拍手が会場内に響き渡り、客席に目を向けると何人かの観客が涙ぐみ盛大に幕を下ろすことができました。
 この時、和と洋の楽器や踊りによるコラボレーションで新たな芸術表現の広がりを確信しました。

◆失われつつある伝統文化芸術

 時計好きの私は、ある時計の書籍に「秒と言う単位は列車が発明されてから世の中に広まった」という一文を見つけました。それまで世の中に秒という単位は必要なかったようです。

 乗り物のスピードが速くなり移動時間短縮やAIなどの発達で仕事などの処理時間が短縮し、「新たに得られた物と失われる物」を急速に生み出す時代になりました。

 戦前日本は、ある一部の国民の嗜みとして伝統文化が受け継がれてきましたが、戦後経済が上向き一般の国民も少しずつ生活に余裕が生まれ伝統文化の習い事が普及し始めました。

 その時代背景には戦争で男性が減ってしまい、結婚適齢期の女性たちは花嫁修業として「茶道・華道」などを身に着けたとご高齢の方々に聞いたことがあります。

 また、当時の日本は農業を営む家庭も多く機械式農機具の発達などにより農家の方は朝夕方の涼しい時間帯に作業をし、暑い日中は農作業を休み、習い事として伝統的な習い事(民謡・日舞・大正琴・茶道・華道など)が普及したと地元の方々に聞いたこともありました。

 しかし、日本は高度経済成長期に向かい農業を営む方が減り会社勤めの方が多くなり、趣味の多様化や情報のネットワーク化の普及により生涯通しての師弟関係の習い事からカルチャーセンター教室に時代は移ってきました。

 生涯学習として1つの習い事に年月をかける「伝統的な精神や所作を通した技術・技法」の伝承の学びから「技術・技法のみ」を短時間に取得する手法に変わり生活スタイルの変化と時の流れのスピード化が新たな文化を生み出している時代です。

◆伝統文化芸術の未来

 日本人の趣味が多様化する中、「時代の流れによって日本の伝統文化が自然消滅していくことは仕方ない」と世の中の声が多いですが、日本の子供たちが伝統文化芸術を目にすることなく情報を知らないまま衰退していくことに寂しさを感じます。

 外国の文化を学ぶ事もとても素晴らしいですが「灯台下暗し」とはよく言ったもので、遠い国の物は良く見えますが近くにある日本の素晴らしさを様々なイベントを通して多くの人達に周知していきたいです。

 「日本人が感動する日本の伝統文化芸術」が子供たちの目に多く触れる機会を増やし少しでも興味を持ってもらうことで、未来へ日本の文化を残して行く道が広がると私は信じています。

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