サルの世界にイベントは存在するのか 

■執筆者 理事 松倉 崇
■執筆日時 2009年2月18日
 
サルの営みの中に、人類の原型が見える
  最近、テレビでは、いろいろな動物の生態を根気よく、克明に追っかけたドキュメンタリー番組がよく放送されるようである。
私としては、比較的好きなジャンルの番組なので、なるべく見逃さないように注意しているが、特に興味深く見ているのは、サルたちを取り扱った番組である。
しかも、比較的に高い知能を有するとされる、「ゴリラ」「チンパンジー」「オランウータン」などの、いわゆる霊長類が登場すると、もうゴキゲンで、あたかも自分もその一員であるかの様な気分で、見いってしまうのである。
 それというのも、彼らは人間にきわめて近い存在であるだけに、ちょっとした日常の営みやアクションのひとつひとつが、太古の昔の私たちの姿を、彷彿とさせてくれるからである。
現在の我々の社会や生活は、あまりにも複雑に進化・発展してしまったので、何が本質であり、何が根源的なものかを、とかく見失いがちになってしまう。
サルたちの生活には、人類が長い時間をかけて獲得してきた複雑な要素がすっかり取り払われ、人間の営みの原型が投影されているので、この問題を考えるに当たっての、とても有効なヒントが、いろいろと隠されているのである。
 
ホモサピエンスは、文明を手に入れたサル
サルと人類の決定的な差異は、「火を使えるか否か」ということになっているが、現在の人類である《ホモサピエンス》の要件としては、「文明」を築いたということを挙げるべきであろう。
地球上の何箇所かで文明が発祥したとされるが、「文明」と称するには、下記の3個の条件を満たす必要があるという。
すなわち、《食糧を再生産》することができる、集団で生活し、いわゆる《社会》を構成している、その集団を維持するために、《社会的分業》が成立している、という3項目である。
この中で特に、わたしの興味を引くのは、3番目の集団の維持と、そのための《社会的分業》についてである。
他の集団の脅威から自分たちを守るための戦士や兵隊、自然の脅威を避け、好運を呼ぶための巫女や神官、食料を確保するための農民などというのは、文明成立とほぼ同時に存在したことは疑う余地はないが、《イベントを業とするグループ》は、一体どの段階で成立したのだろうかという、疑問が湧き上がって来るのである。

集団を維持するためには、非日常性が不可欠 
集団の維持という課題を考えると、1年365日毎日が「金太郎飴」のように同じであるよりは、時々は皆で一つのことに打ち込み、皆で共感するという「非日常性」の要素が欲しくなるのは当然であり、この意味では、四季の変化がある温帯地域に、多くの文明が生まれたのもよく分かる。
この非日常性を通して、集団の一体感や連帯性が高められるのであるが、できることならそのテーマは、戦争や葬式などのシリアスなものより、楽しく愉快なものが求められるのが自然であろう。
 こう考えてくるとこれはもう即ち、現代のイベントそのものであり、我々はイベントには「地域振興」や「経済活性化」の効果があるといい、これらに目を奪われがちであるが、振り返ってみればその原点には、「集団維持」というニーズが厳然として存在したことを、思い起こさねばなるまい。
従って、 我々「イベント業務管理者」が資格として認知されたのは、わずか15年前であるが、文明発展の過程に照らして考えてみると、相当に早い時点において、イベントの原型とその専門家集団が存在したはずである。

ロイヤルボックスは、何故つくられたのか?
 ギリシャ時代には、ギリシャ悲劇を上演するための、音響効果まで考慮した壮大な劇場があったし、古代オリンピックのための競技場も造られていた。
ローマの時代には、今でもローマをはじめいろいろな都市に、その遺構を見ることができる「コロッセオ」と呼ばれる闘技場が盛んに建設され、選りすぐられた屈強な奴隷戦闘士達が、猛獣に戦いを挑んで見せ、市民は興奮に酔い痴れたのである。
また、その頃の政府や為政者に求められたのは、「安全」と「パン」と「娯楽」の提供だといわれるが、集団の維持のためには、これらが本当に必須・不可欠な要素であったからに違いない。
 だからこそ、ローマ帝国は征服により新たな領土を手に入れると、そこにローマの街並みを見習って、神殿や政庁とともにコロッセオや浴場を建設したのである。
しかも、建設の動機は決して思いつきや気まぐれなどではなく、その熱意たるや並々ならぬものであり、真剣さや決意のほどには、容易ならざるものがあったことは、建造物の規模や壮麗さから十分に推測することができる。
そしてその施設には必ずロイヤルボックスが設けられ、身分ごとにその席が定められていたという。 支配者と被支配者の関係や序列を、現実に目に見える形にし、常に自分の社会的な位置を確認させることにより、精緻に構築された社会秩序の安定と維持を図ったのであろう。

人間は、イベントをやるサルである
 このように考えてくると、イベントというのは人間の営みに深く関わった、かなり本質的な存在であることには間違いないが、イベントのルーツは何処まで遡れるのだろうかという、新たな疑問がわいてくるのである。
 サルたちも確かに、集団で生活を営んでいるのであるが、その集団維持の手段として、何かイベント的な要素を用いているのだろうか?
もし、彼らの行動の中に、何かしら非日常的な行動や営みが確認されれば、「イベントは、人間の本能的な営みである」ということが可能になろう。
 しかしたとえ、サルたちの行動の中にそのような行動が確認されないとしても、「イベントは文明の基本的な一翼を担う、人間としての根源的な営みである」ということだけは、声を大にして言っておきたい。
 近年、道具を使うサルたちの姿が何度か放映されたが、幸か不幸か目下のところ、TV番組の中でサルたちがイベントをやっているシーンは、未だに目にしたことがないので、これからもこの一点に注目して、サル番組を観て行きたいものである。
そしてもしチャンスがあれば、霊長類学者にこの疑問をぶつけて、大いに語ってもらいたいと願っている次第である。