『後に残すもの』

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2005年7月1日
 
『後に残すもの』

 イベントというものは、ある日突然姿を現し、気がつくと忽然と姿を消していた、のいうのがよい。つくる様子を無造作に晒したり、ズルズルといつまでも続けたり、終わった後に余計な残滓を残したりするのはカッコ悪い。
 とくに終わり方が大切だ。スパッときれいに終われるかどうかで、イメージや評価は大きく変わる。イベントは「終わり良ければすべて良し」なのである。
 そして実際、ほとんどのイベントは忽然と姿を消す。文字通り跡形もなくなり、いつもの風景に戻っていく。
 だが、ひとつだけそうはいかないイベントがある。博覧会である。ヘクタールという単位の敷地を必要とするから、仮設建物を撤去した途端に膨大なさら地が現れる。会場を新たに造成する場合だけでなく、既存の土地をかき集めて開催するときにも基本的には同じだ。
 もちろん、「終われば元の公園に戻るだけ」とか「もともと開発予定地なので問題ないのだ」というケースもなかにはあるけれど、すべてがそう上手くいくわけではない。だから後のことが気になる。ましてやこういうご時世だから、跡地のゆくえに注目が集まる。いわゆる『後利用』の問題である。

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 後利用への視線は、むろん土地だけでなく建物やインフラにも向かう。いまや博覧会は、開催すること自体より、むしろ終わった後に決着をつける方が難しいくらいだ。
 だが本当のことをいえば、「後利用」や「跡地の活用」などと言っているうちは上手くいかないと思った方がいい。“後利用”という言葉の根底にあるのは、「博覧会のためにつくってしまったものをどうすれば無駄にせずに済むか」という発想だ。要するにはじめから後ろ向きなのである。後利用には、博覧会を“土地利用で埋め合わせる”とのニュアンスがある。
 施設についても同様で、つくった建物をすべて撤去・処分するのでは“環境にやさしくない”ので、ひとつくらいは恒久施設をつくってアリバイを残そう、という話になる。
 けれども実際にはそう簡単に妙案は浮かばないから、結局はきれいな広場と立派な箱物のセットが残されたりするのだが、やはり後処理の印象はぬぐえない。
 しかし世界を見渡せば、そうではない事例がいくつもある。代表的なケースのひとつが1998年のリスボン国際博覧会だ。

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 会場となったのは、リスボン市東部に広がるウォーターフロント。海のごときテ-ジョ河に面する実にさわやかで美しい場所だ。
 だが以前は違っていた。朽ちた石油精製工場や屠畜場跡などが立ち並ぶ汚い・臭い・危ない場所だった。リスボン市民の印象も最悪だったから、近づく者などいなかった。
 ポルトガル政府は、郊外立地の長所を備えながらも中心市街地から15分というこの“リスボン最後の土地”を再生させるプロジェクトを進めていた。スタートが80年代末、開発規模は330ヘクタール、完成は2010年という超弩級の再開発である。
最大の障害は、市民の頭にこびりついている悪しきイメージだった。いくら「今までとは違う」と宣伝しても、一度脳裏に刻まれたイメージはそう簡単に払拭できない。安全で快適な地域に生まれ変わったことを納得してもらうには、自分の目で直接確かめてもらうしかない。
 多くのリスボン市民に実際に足を運ばせる方法はないか、すなわち最も大量かつ効率的な集客事業とはなにか。その実現方法として、つまりは市民のイメージを新しく書き換える切り札として選ばれたものが国際博覧会だった。
 だからリスボン博では、開発計画のリストにある施設群をできるだけ“先利用”して博覧会を構成しようとのコンセプトが打ち出されていた。これから立ち現れる未来都市の“予告編”を見せることが期待されていたからだ。
 1万5千人収容の多目的ホールを「ユートピア館」に、将来の総理府を「ポルトガル館」に、といったように多くの施設が先行建設され、博覧会期間中だけ機能と用途を変えて利用された。
 これはアリバイづくりのために無理をして箱物を残すのとは似て非なるものだ。

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 リスボン国際博は、ポルトガルの全人口に相当する1千万人の来場者を迎え、好評のうちに幕を閉じた。あれから6年になるが、もちろん今も開発は続いている。人や企業がどんどん集まっているらしい。
 完成まであと数年。その頃には再び現地を訪れ、あの博覧会がどんな役割を果たし得たのかをぼくなりに検証してみるつもりだ。楽しみである。
 10年後、20年後まで視野に入れ、注意深く見守るに値するイベントは多くない。
 リスボン博には緻密さと大胆さが同居していた。そしてなにより確固とした自信と誇りがあった。
 迷いのないイベントには説得力がある。

(月刊 『Event & Convention』 2005.1月号より転載)