消費マインドを刺激せよ

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2003年12月1日
 
小学生の頃、近所にカラーテレビのある家は一軒しかなかった。若い人は信じられないかもしれないが、当時はテレビといえば白黒が普通だった。カラーテレビは今からは想像もできないほど高価で”ありがたい”ものだったから、庶民には手が届かないのだと子供心に諦めていた。
 だがあるときを境に、子どものいる家が一斉にカラーに買い替えるという事件が起きた。ぼくの家にも家具のような立派なテレビが届いた。あまりに鮮烈な出来事だったので、今でもはっきり覚えている。
 原因はたったひとつの番組だった。『巨人の星』である。放送時刻が近づくと、近所中の子どもたちが夕飯を放り出して一軒しかないカラーのある家に押しかけたからだ。困った親たちは、仕方なく無理をしてカラーを買うしかなかった。
   
 これを今風にいえば、「優れたコンテンツがハードの消費を牽引した」ということになるだろう。大雑把にいえば、商品にはハード(機能)とソフト(コンテンツ)の2種があって、多くの場合、ソフトの充実がハードの売上げを押し上げる。
 最近ではテレビゲームがその典型だ。ソフトの出来がハードの趨勢を決める。ドリームキャストのように、ソフトに恵まれなければハードは存続することさえできない。
 そう考えれば、モノが売れないのは魅力的なソフトがないからだ、ということになる。確かにどの家庭でも必需品は一通り揃っているから、日々の暮らしに不自由はない。
 だが今だって、ヒット商品は絶え間なく生まれている。よほどのインパクトがない限り新しいものは要らない、というだけだ。そしてインパクトをつくるのは、往々にして優れたソフトである。
 以前『プリントごっこ』が爆発的に売れたのも、「オリジナル年賀状」というソフトがセットで提案されていたからだ。それなしに、単なる「家庭用印刷機」として世に出ていたら、おそらくほとんど売れなかったのではないか。
  
 ソフトがキャスティングを握るのはモノづくりだけではない。実は豊かな時間を過ごす上でもソフトは欠かせない。
 「モノからこころへ」「時間消費の時代」などのフレーズが流行ったのは十数年も前のことだが、依然として「誰もが豊かな時間を過ごせるようになった」という実感がないのはなぜか。
 確かに休日は増えているし、モノへの欲望も以前ほどではないと思うが、だからといって余暇の過ごし方が格段に充実したとも思えない。
 考えてみれば、夫婦でドレスアップして出かける機会が増えたわけではないし、趣味で何かをはじめても仲間内を超えて成果を発表したり交流したりする機会は多くない。高性能なクルマを買っても走らせる場所がないのと同じで、要するに時間を消費するためのソフトが一向に育っていないのである。
 時間の過ごし方のソフトが充実すれば「時間や体験を買う」ための消費が増えるのはもちろんだが、忘れてはならないことは、それは関連するモノの消費をも必ず押し上げる、という事実だ。
 ぼくの娘はバレエを習っているのだが、たかだか内輪の発表会に出るだけなのに、衣装をはじめモノに対する出費がかなりある。もちろん妻は喜んで支出している。
 友人のひとりは最近、趣味で映像制作(といっても編集を楽しむ程度だ)をはじめたのだが、今度コンテストに参加するといって高性能のパソコン・撮影機材一式を買い揃えた。
 発表会やコンテストという出来事がなければ、これらのモノへの消費は生まれていなかった。つまりはイベントが、モノの消費を喚起したということになる。
 イベントは間違いなく消費マインドを刺激する力をもっているのである。
  
 これまでイベントは、ともすれば不要不急の代表格のように見られてきた。実際、企業でも行政でも、予算を削らねばならなくなったとき、真っ先に削るのはイベントだ。だから不況が続くいま、イベント業界はとても苦しい。
 他方、イベントと経済の関係が取りざたされるのは、オリンピックや博覧会など大型イベントと「経済波及効果」の関係が語られるときだけだ。
 だが実は、暮らしのなかの小さなイベントこそが、我々の消費行動に大きな影響力をもっているのだ。この当たり前の事実を、ぼくたちはこれまで見失ってきたのではないか。
 夫婦でドレスアップして出掛ける機会が出来ただけで、あるいは趣味の成果を世に問う舞台が用意されただけで、毎日の暮らしにほどよい緊張とリズムが生まれ、ライフスタイルは大きく変わる。もちろん、進んでいろいろな消費をするはずだ。
 消費マインドを刺激する処方箋として、イベントの役割がもっと注目されていい。

(月刊『Event & Convention』2003年6月号より転載)