業務用生ゴミ処理機

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2003年8月1日
 
先日、環境関連機器を扱う見本市に行く機会があった。会場には、ゴミの破砕や焼却、廃棄物の処理や生ゴミの資源化など、環境にかかわる最新機器や先端システムが所狭しと並んでいた。日ごろ見慣れた典型的な見本市の風景だ。
 ぼくは、手掛けている仕事の参考になるものはないかと目を凝らしながら、早いペースで機械的に歩いていたのだが、屋外展示ゾーンに出た途端に目に飛び込んできた奇妙な光景に、完全に足が止まってしまった。
 粗末な運動会テントが二張り。どう見ても場違いだ。人垣の間をよく見ると、真ん中に物静かな老人が一人座っていて、その周りを幼稚園ぐらいの女の子が一所懸命に床掃除をしている。隣では、お母さんとおぼしき人がエプロン姿でなにやら忙しそうに働いている。ますます場違いだ。
 近寄ってみて驚いた。そこで目にしたのは、鳥カゴのなかでクズ野菜を啄ばむニワトリと、床にゴロンと寝ている3匹のブタだったのだ。ぼくは目の前の事態を咄嗟に理解することができなかった。
  
 鳥カゴの脇に看板が立っていた。タイトルは『廃鶏ってなに?』。卵を産めなくなってリストラされたニワトリのことだという説明の後にこう書いてある。『一般家庭から出る1日の生ゴミ約700gのエサで、2日に1個はまだ卵を産めます。一家に一羽、「生ゴミ処理機」としてご利用ください。』
 ブタの方はさらにインパクトがあった。『業務用生ゴミ処理機~こぶた3兄弟~%,000』。その下に“スペック”が列挙されている。「1日30kgの大容量」「強力破砕機(丈夫な歯)内蔵」「電気代要らず」「生ゴミと(スプーンなどの)異物を自動分別」「24時間後には有機肥料(豚ふん)を生産」「最後はお肉に~@,000のキャッシュバック~」。
 呆気にとられ、しばらくその場を動けなかった。それは、ダイナミックな照明演出や華やかなコンパニオンを駆使してプレゼンテーションを競い合うハレの場に、あまりに似つかわしくない“異物”だった。
 人だかりが出来ていたのも無理はない。当たり前の見本市のなかで、ここだけが当たり前ではなかったからだ。
  
 この“ブース”を出展していたのは、茨城県大洋村という田舎の村の小さな会社だった。なにしろブタとニワトリ以外は展示らしい展示がないので詳しいことはわからないが、どうやら食品廃棄物をエサに鶏を放し飼いにするシステムを提案しているらしい。
 たぶん、おじいさんとお母さんと孫なのだろう。彼らは村で実践しているブタやニワトリとの暮らしをそのまま会場に持ち込んだ。おそらくはそれ以外に見せるものはないし、見せようとも思っていない。だから、彼らの展示にはシナリオもなければ演出もない。手作りの看板を立てて、あとはただ生き物の世話をしているだけだ。
 だが有無を言わさぬ説得力があった。2000小間を超える大規模見本市のなかで、もっともインパクトがあり、一番力をもっていた。
 揺るぎない哲学と独自の世界観に裏打ちされたシンプルで明快なコンセプト、そして迷いのないストレートなメッセージ………。
 大仰にいえば、良質のアート作品と同じ構造だ。小理屈では太刀打ちできないプリミティブな力強さがある。要するに“本物”なのだ。本物には本物だけがもつ説得力がある。
  
 いろいろ考えさせられたあげくに館内に戻ると、再び見慣れた光景が広がっていた。どのブースも工夫を凝らしたデザインと演出を競い合い、ステージではヘッドセットを装着したナレーターコンパニオンがスポットを浴びて華やかな空気を醸し出している。いつもと同じだ。
 だが、この当たり前のシーンを目にしたとき、突然、いままで感じたことのない違和感が込み上げてきた。そのときの感覚をうまく表現することはできないけれど、要するに、プレゼンテーションがとても薄っぺらに見えたのだ。
 もちろんコンパニオンたちに罪はない。彼らは決められた役割を指示通りにこなしているだけだ。ただそのとき、「決意」も「実感」もなくシナリオ通りに発せられる彼女たちの言葉が、空しく感じられてならなかった。
 ひとに何かを訴えるとき、説得力を決めるのは、結局のところ志の高さと信念の強さだと思う。情報の受け手には、送り手の志や情熱までが透けて見える。観客は決してナイーブではない。
 自らが“本物”であること、そして高い志をもっていること。見本市のプレゼンテーションで一番大切なことは、おそらく、それを生々しくさらけ出すことなのだ。
 見本市のあり方もそろそろ曲がり角に来ているのかもしれない。ブタとコンパニオンを同時に見た日、ぼくはそう思った。

(月刊「EVENT & CONVENTION」2002.9月号より転載)