プロデューサーのハサミ

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2002年5月1日
 
行きつけのヘアサロンで髪を切ってもらっていて、美容師のハサミの話になった。細身でシンプルなそれは、さほど大層な身振りはしていない。装飾性を排したいかにも実用一点張りのデザインだ。
 軽い気持ちで値段を聞いて、絶句した。さすがに文房具並みとは思わなかったけれど、それでもせいぜい1?2万円だろうと思った。それがなんと大卒初任給より高いのだ。美容師業界(こういう言い方があるのか?)独特の流通ルートで手に入れ、その後も折に触れて「研ぎ」に出す。まるで日本刀の話を聞いているようだった。
 美容師の彼女は、僕が考えていた以上にハサミにこだわっていた。ハサミはとても微妙なもので、「悪いハサミ」は切った髪が飛び散るが、「良いハサミ」だとまっすぐ下に落ちるのだという。彼女の一番のお気に入りにはコバルトが含有されているらしい。“コバルトのハサミ”はわずかにセピア色で、輝き方もあたたかい。
 彼女はハサミをとても大切にする。当然である。大仰に言えば、彼女にとってハサミは生活の糧であり、自らの職能の証明であり、プロとしてのプライドのシンボルなのだ。
 話を聞いていて、うらやましいと思った。かっこいいとも思った。なぜなら、イベントプロデューサーとしての僕には道具がないからだ。

 小さい頃から、道具にこだわり手塩にかける職人の姿に憧れてきた。大工とカンナ、ミュージシャンと楽器、板前と包丁………。傍からは伺い知ることのできない道具とプロフェッショナルとの緊張関係をいつか自分も感知したい、と思っていた。
 イベントの仕事をするようになって周囲を見渡してみると、道具を持つ者が少なからずいた。とくに規模の大きな現場は多くの職方による輻輳作業になるから、いろいろな道具が氾濫する。みな真剣な面持ちで道具を使い、帰り際には大切に仕舞う。
 だが、僕が現場で持ち歩く道具といえば、せいぜいペンとスケールくらいのものだ。手ぶらで歩く自分だけが「お客さん」になったようで、いつも寂しい思いをしてきた。
 しかし考えてみれば、僕だってプロの技術者としてものづくりにかかわっているのだから、何らかの道具を使っているだろう。イベントは「ものづくり」というより「ことづくり」だが、それでも何も道具を使わずに生み出せるはずはない。
 物理的なモノではないかもしれないが、仕事を進める上でなくてはならないもの、自らの職能を全うするために欠くべからざるもの、があるに違いない。

 そう考えたら、思い当たることは一つしかない。人のネットワークである。正確にいえば「仕事の面でも人格的にも全幅の信頼を寄せることができ、いつでも無条件で協力してくれる専門家」をどれだけ幅広い領域にもっているか、ということだ。幸いなことに、僕には電話1本で何でも教えてくれる専門家の知己がいろいろな世界にいる。自分の仕事になるか否かにかかわらず、みな無条件で協力してくれる。
 企画段階で思いついたアイデアを話せば、実現性や問題点を指摘してくれるし、足りない部分を補ってくれる。自分より相応しいと思う人がいれば無条件で紹介してくれる。制作段階でも同じだ。惜しげもなくアイデアを提供してくれるし、ビジネスを超えて最善を尽くしてくれる。
 曲がりなりにも僕が仕事ができているのは彼らのおかげだ。一人では何も出来ない。そもそもプロデューサーというのは指揮者のようなものだから、たくさんの専門家を束ねることこそが仕事なのだ。
 もちろん、こうした信頼関係は一朝一夕に出来るわけではない。名刺交換をしたからといってそうはならない。ともに仕事を進めるなかで徐々に醸成されていくものだ。だから時間がかかる。簡単に手に入らないから財産になる。
 しかし、一度関係が出来たからといって安心はできない。プロの世界は厳しいから、こうした人間関係が維持できるのは互いの技術力への尊敬と信頼がある間だけだ。「あいつはだめだ、つまらない」と思われたらドロップアウトするしかない。
  
 プロデューサーとしての僕の職能を支えているのは、間違いなく人のネットワークだ。だがそれは不変ではない。美容師の彼女が切れなくなったハサミを研ぎに出すように、常に最良の状態をキープするためには更新が要る。単なる仲良しクラブでは意味がない。油断すればもちろんこちらがはじかれる。
 契約関係や主従関係がない代わりに、ほどよい緊張感がある。緊張ある信頼関係という意味では、道具と職人の関係と同じかもしれない。

(月刊「EVENT & CONVENTION」2001.9月号より転載)