リレートーク

アクティング・エリア

カテゴリー: リレートーク

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2003年9月1日
 
 偶然ラジオで耳にしたFEN(米軍極東放送)がきっかけでぼくがはじめて洋楽に出合ったのは小学校6年生のときだった。ビートルズが解散し、大阪万博が開かれた1970年のことだ。
 それからしばらくロックにハマった。70年代前半はロックミュージックの黄金期で、レッドツェッペリンやディープパープルが全盛だった。もちろんギターも買ったし髪も伸ばした。レコード屋に入り浸り、小遣いはすべてLPに費やした。
 今とは違って、アーティストの動く姿を映像で見ることさえままならない時代だった。ましてや実際にライブを観る機会など滅多に訪れなかった。なにしろ30年前のことだから、来日するミュージシャンは数えるほどだったし,日本のバンドはケタ違いにレベルが低かった。
 だから、コンサートの非日常性と興奮の度合いは今よりはるかに大きかったと思う。しかし、それにもかかわらず、観客はとてもお行儀が良かった。着席したまま皆おとなしく観ていた。
 慣れていなかったということもあるけれど、結局は開演前の「席を立つと中止する」という脅迫に似たアナウンスに屈していたような気がする。
 アーティストは『さあ、みんな立ち上がって踊ろう』と言っているのに、その通り
にすると警備員が飛んできた。本当にそんなに危険なことなのか...、中学生のぼくはいつも釈然としない思いだった。

 興奮と群衆心理のなかにいる観客の統制は確かに難しい。実際にコンサートでは将棋倒しの事故が絶えないし、祭りではケンカや負傷者がつきものだ。
 群衆の力を侮ってはいけない。コンサートではないけれど、大阪万博のテーマ館では群衆の圧力で俗にいうヨンパーロク(直径48.6mm)の鋼管が折れたという。信じ難い話だが本当らしい。それほど群衆のパワーは強い。
 だから、群衆の警備はとても難しく、そして重要だ。イベントの世界では、コンサートや祭りなど不特定多数の群衆が集う催事の警備を「催事警備」や「雑踏警備」といって一般の施設警備とは切り離して考える。規模が大きくなれば、当然警察のお世話にもなる。
 イベントの仕事をするようになって、警備にはいつも苦労させられてきた。できればみんな動かず大人しくしていてほしい、と心底思ったし、“脅迫アナウンス”をしたくなる気持ちもよくわかった。
 でもその一方で、中学のときから感じていた“すっきりしない違和感”がぼくの中では依然としてくすぶっていた。

 1994年、三重県で『まつり博―三重'94』という地方博が開かれた。"まつり"を切り口にしたこの博覧会には、実際に世界各国・日本各地からたくさんの祭りが招かれた。会場全体に広がる催事展開の中核として、新設の大規模アリーナの内部空間をイベントホールに転用したのだが、その設計をしているとき、ある仕掛けを図面のなかに織り込んだ。
 ただし、仕掛けといっても目に見えるものは何もない。ステージと客席との間に距離を取り、幅10mの通路状の空きスペースをつくっただけだ。この「何もないこと」が仕掛けだった。
 『アクティング・エリア』と名付けられたこの空間で、出演者と観客とが渾然となって歌い踊ることをイメージしたのだ。『見る博覧会から感じる博覧会へ』というこの博覧会のプロデュース思想に呼応したコンセプトだったのだが、なにより中学以来の疑問に決着をつけたかった。
 もちろん賭けだった。今だから言えるのだが、100%の自信があったわけではなかった。実は、初日にやってみてダメだったら運営方針を180度変えよう、と腹を括っていた。

 だが、心配は杞憂だった。初日から完全に機能した。
 開幕日のステージに上がったのはブラジルのサンバチームと阿波踊りの妙手たちだ。いよいよクライマックスにさしかかり、彼らはステージ下に降りてきて観客席を挑発しはじめた。
 だが観客はみな顔を見合わせるばかりで動こうとしない。ダメなのか、と諦めかけたとき、二人、三人と前に進みはじめた。はじめは様子を伺っていた観客たちの表情がだんだんと変わってきた。どんどん出てくる。最後はディスコのような熱気になって、出演者と観客とがひとつの輪になった。
 その後も毎日、この空間はさまざまな交流の舞台になったのだが、108日間の会期中、事故や混乱は一度も起こらなかった。もちろんアイドルのコンサートで同じことが出来るわけではないし、運営スタッフの努力が決定的な働きをしたことも確かだ。だが少なくとも、必ずしも観客を客席に縛らなくとも催事運営はできる、という可能性を見せてくれた。
 演者と触れ合う観客の楽しそうな笑顔をぼくは今も忘れていない。

(月刊「EVENT & CONVENTION」2003.3月号より転載)